東日本大震災
3.11東日本大震災の日、私たち家族は福島県郡山市に住んでいました。
アパートの2階に住んでいた私たち。今までに経験したことのない大きな揺れが長く続きました。
その後、原発事故で当時、3歳のコキンちゃんと生まれたばかりのミルクぼうや(現在はぼうやに・・・)を連れて新潟県に一時避難。
地震に加え原発事故と、小さな子供たちを抱え不安でいっぱいでした。
新潟県で1週間過ごし、その後私は主人と離れ子どもたちと実家のある大阪で暮らしていました。
原発事故が収束しない中、主人は仕事のため新潟県から福島県に戻りました・・・
大阪では、普段と何ら変わらない日常が送れましたが、福島県に戻った主人が心配でした。
「私はいつ福島県に戻れるの?」
先行きの見えない生活が始まりました。
4月に入り、コキンちゃんが入園する予定の幼稚園から電話がかかってきました。
家族の安否確認をされた後、入園式は通常どおりに行われるとのこと。
不安もあったけど、コキンちゃんが楽しみにしていた幼稚園に通わせてあげたいという
思いが強く4月8日(入園式の前日)に福島県郡山市に戻りました。
でも、福島県郡山市は放射能に汚染され
東日本大震災以前のような暮らしはできなくなりました。
大好きだった川辺の散歩
公園での砂場遊び・・・
あの日を境に、奪われてしまった平和な日常。
幼稚園にマスクを着用して通うコキンちゃん。
帰宅後は、放射能汚染が心配ですぐにお風呂に入れました。
散歩もできずずーっと閉め切った部屋の中にいるミルクぼうや。
天気の良いある日、
コキンちゃんがこうつぶやいたのです。
「もうコキンちゃんは幼稚園生だからね~!
お外で遊んだらダメなんだよ~」
当時、幼稚園では子どもの健康を考え外遊びは控えられていました。
新しく幼稚園に導入された遊具を見るたびにとても切なくなりました。
私は、コキンちゃんのこの言葉を聞いて
そしたら外で元気いっぱい遊べるところに引っ越そう!!
外でいっぱい遊べる幼稚園に行こうと・・・
そして、2011年6月 親類の住む宮城県仙台市に引っ越すことにしました。
主人は、仕事のため福島県郡山市に残ることになりました。
いつになったらまた家族4人で暮らすことができるんだろう??
アパートの2階に住んでいた私たち。今までに経験したことのない大きな揺れが長く続きました。
その後、原発事故で当時、3歳のコキンちゃんと生まれたばかりのミルクぼうや(現在はぼうやに・・・)を連れて新潟県に一時避難。
地震に加え原発事故と、小さな子供たちを抱え不安でいっぱいでした。
新潟県で1週間過ごし、その後私は主人と離れ子どもたちと実家のある大阪で暮らしていました。
原発事故が収束しない中、主人は仕事のため新潟県から福島県に戻りました・・・
大阪では、普段と何ら変わらない日常が送れましたが、福島県に戻った主人が心配でした。
「私はいつ福島県に戻れるの?」
先行きの見えない生活が始まりました。
4月に入り、コキンちゃんが入園する予定の幼稚園から電話がかかってきました。
家族の安否確認をされた後、入園式は通常どおりに行われるとのこと。
不安もあったけど、コキンちゃんが楽しみにしていた幼稚園に通わせてあげたいという
思いが強く4月8日(入園式の前日)に福島県郡山市に戻りました。
でも、福島県郡山市は放射能に汚染され
東日本大震災以前のような暮らしはできなくなりました。
大好きだった川辺の散歩
公園での砂場遊び・・・
あの日を境に、奪われてしまった平和な日常。
幼稚園にマスクを着用して通うコキンちゃん。
帰宅後は、放射能汚染が心配ですぐにお風呂に入れました。
散歩もできずずーっと閉め切った部屋の中にいるミルクぼうや。
天気の良いある日、
コキンちゃんがこうつぶやいたのです。
「もうコキンちゃんは幼稚園生だからね~!
お外で遊んだらダメなんだよ~」
当時、幼稚園では子どもの健康を考え外遊びは控えられていました。
新しく幼稚園に導入された遊具を見るたびにとても切なくなりました。
私は、コキンちゃんのこの言葉を聞いて
そしたら外で元気いっぱい遊べるところに引っ越そう!!
外でいっぱい遊べる幼稚園に行こうと・・・
そして、2011年6月 親類の住む宮城県仙台市に引っ越すことにしました。
主人は、仕事のため福島県郡山市に残ることになりました。
いつになったらまた家族4人で暮らすことができるんだろう??
タグ:自主避難
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